『楽日』

蔡明亮監督の『楽日』を観た。

ある映画館の最終日を描いた作品で、セリフはほとんど無く、長回しのカットが多い(人やカメラが動いたりすることは無くて定点観測のよう)。

舞台となった「福和大戯院」は実際に閉館を控えた映画館で、監督がその閉館の報せを聞いたことから『楽日』の制作は始まったらしい。

映画館に行った時、その映画館が古ければ古いほど、映画を鑑賞する場であること以上に、そこが近隣の人々の憩いの場となっていて、この「福和大戯院」もそうして実在した映画館ならではの経年劣化と生活感があって、ただそこが写っているということだけで充分だなーと思った。

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(「福和大戯院」の写真)

 ジメジメとした、どことなくカビの匂いがしそうな空気感が伝わってくる長回しの映像は、閉館間近の建物の記録映像の役割も果たしていて、ドキュメントの要素もあった。

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券売係の女性がブースの中でふかして桃まんを食べていたのが印象的だった。この桃まんと飲み物を飲む様が独特で、ぎこちなくちょびちょび食べて、飲む。全部食べずに半分に切ったり、おすそ分けしたり、なんとももどかしいものがあった。このもどかしい感じ、スカッと抜けない停滞した感じがずっと作品の中に漂っている。

この映画はあるすごく狭い世界の広がりを描いている。ボロい映画館の中でかつてのヒット作が当時と同じように上映されているのだけれど、客はほとんどいない。老役者がその作品に出演している当時の自分を観る。映画は流れるけれど、その映画を見ている若い人はその当時を知らず、当時を知っている人は当時のままじゃなく、映画館も老朽化している。しかし昔は昔、今は今で別々に存在していて、決して一続きになったものでは無く、映画は映画、人は人、別々のもので、やたらにセンチメンタルな気持ちになったりして何かを惜しんだりしても、実際のところの生活は淡々と進む、といったようなことを観ていて思った。

 ちなみに、高校の時よく行った三軒茶屋中央劇場という映画館と福和大戯院は何となく似ている。

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三軒茶屋中央劇場はどこよりも外界と遮断されたすばらしい空間だったが、数年前にこちらも閉館してしまった。

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こんな感じだった。地元を離れてしまったのでそれこそ最終日には行くことが出来なかった。

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この中央劇場のすぐ側にあったこちらの劇場も閉館になったそうで、この地域から映画館は無くなってしまった。若年層を取り込めない名画座はおそらくどこも閉館の方向に進んでいるのだと思う。