自己啓発BONG
毎朝地下鉄に乗っている。
どの朝の私も血圧が低い。
電車の振動よりも激しく頭の中が揺れるので酔ってしまいそうだ。
率直にいうと気持ちが悪くて吐きそうだ。
吐きはしないものの、一日中調子が悪い。昼間はひたすらに眠く、夜は目が冴えている。
昼間は狸、夜は狐だ。
朝のニュース番組の色使いは目に毒で、夜のニュース番組の色使いはお高く止まってるみたいで退屈である。
昼のニュース番組をたまたま見たことがある。ちょうどいい色使いであった。しかしその時間は基本的に働いているからそれを目にすることはほとんど無かった。
車輌のあちこちに広告が掲載されている。
よく見かけるのが自己啓発本の広告である。
「仕事ができる人はみんなやっている 超異端社長が教える10のメソッド」
あまりにもくだらないタイトルであった。
くだらなさも臨界点を超えると意味が爆発する。飽和状態になった意味が逃げ場を失ってぱつんぱつんになった後、それを感じるやいなや弾け散るのだった。
ダメな時は何をしてもダメだ。10のメソッドのうち今役に立つものはあるだろうか。
私は次の駅で降りて本屋へ向かった。
あてはなかったが、駅に直結したビルの3階に「びよんびよん書房」というチェーンの本屋があったのでそこに入った。自己啓発本はこの手の本屋には見つけたくなくても見つかるくらい何冊もある。
「やるかやらないかはあなた次第
やった人が感じることのできる世界を案内するマインドトラベルガイド」
「朝実感する メンタルを生まれ変わらせる24のアイデア」
「現役No.1臨床心理士が耳元で囁く あなた自身を変える2600のマニュアルレボリューション
〜ソノイキカタマチガッテイマスヨ〜」
「人生はほんの些細な長い旅
〜美しい歌に導かれいざイビサへ〜」
「狂ったような私が出逢った
「メンタルスナイパーSATOSHIGEが撃ち抜くあなたの20の心の悩み〜キットナヤミキエル〜」
「心の中にモアイ像を建立することで負けない人生が始まる」
「もう自己啓発本には騙されない 本当に本当の自己啓発BOOK」
タイトルを見ているだけで充分に自己啓発されたが、私の心の虚空は依然としてそこにあった。ダメな時は何をしてもダメだから、あえて今まで読む事を避けてきたこの自己啓発の世界へ飛び込もう。そう思ったのだった。
例のあの異端社長のメソッド本は平積みされていたのですぐに見つかった。売れているようで店員の書いたポップのようなものが本の前に掲げてある。
「阪東線の扉の窓あたりに貼ってある広告でお馴染み!
今人気の異端の中の異端社長「寺坂ITAN慎一郎兼実」が今伝えたい、今読むべき今を変え今を輝く10のメソッド
買うなら今!」
確かに今買わねばならない。今買わねば人生が変わらない。そうとさえ思えてしまうような心地であった。
私は一冊それを買えば良いものを勢い余って3冊レジへ持っていった。会計中には既に無駄に2冊買ったことに気づくくらいには心は冷静だったが、後悔はしないように努めた。
だから振り返ることなく本屋を出てビルの4階のチェーンのカフェ「SPLASH COFFEE TOKYO」に入った。レジでカフェラテのグランデを購入し空いている席に着く。
グランデに口をつけることさえ忘れ私は買った本を開いた。
本の1ページ目には既に1つ目のメソッドが書いてあった。
「やるなら、今。」
もうコレ。
だからね。嫌になっちゃうよ。
なんて言わないようにした。これこそが真実。そういう気持ちで読まないと自己啓発の世界に足を踏み込んだ意味がない。これからこのジャングルを進む以上、どんなに気持ち悪い虫が出てきても歩み切らなければならない。
1つ目のメソッドの下にはこう書いてあった。
「そりゃそうでしょ。やるなら、今。これに決まってる。やる奴は必ず成果をあげる。やらない奴にその道は無い。だからやるなら、今。これで決定だね。俺は確実にそう思ってる。」
薄い中身を希釈してどうする。なんて思ってはならない。これこそが真実。真理。貴い教えである。我が心のリーダーが存分に振るいしリーダーシップよ。美しいじゃないか。どこまで付いて行こう。私はあなたのサイドカーに乗り込んでしまったのだ。
ページをめくった。ここでようやくグランデちゃんに口をつけた。
2つ目のメソッド。
「今という時間を分かち合うことで分かち合える分かち合いがある。」
ガビーーン。顎が外れた。滑落した顎、グランデちゃんの中へ。カフェラテの中で下顎がガクガクいっている。
そしてこう続く。
「もう今だけでしょ。今。感じられるのはもうほんとそれだけ。だったら誰かとわかち合わなきゃ終わりじゃん。今を今生きているわけだから今誰かと感じようよ、この今を。一番それ美しいじゃない。」
誰に言っている言葉なんだ?なんて思ってはならない。だってこの言葉は紛れもなくこの私に向けられているのだから。疑問とは呼べない疑問だ。私がこの言葉を素直に聞く。ただそれだけ。ただそれだけで私も異端の一味になれるし、未来が開けるのだから。
重たいページをめくる。3つ目のメソッドは突き抜けるように目に飛び込んできた。
「今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今」
なんと!機関銃だ!今の乱れ撃ち。それを一発も余すことなく私は喰らった。痛い痛い痛い!だけど気持ち良い!
「とにかく今なんだよ。何度も言う。今今今今今今!今があるから今じゃない時間がある。俺は今の全てに今を感じてる。だから自分自身が今であれるわけ。最高に感じあえる仲間と今を感じながら火を囲む。あっ、土日またキャンプ行ってこよ」
今今忌々しい。キャンプ行ってこよ、だかなんだか知らないがどこにでも行ってきたら良いじゃない。
私は嫌になって本を閉じた。
決意したがやはりダメだった。ダメな時は何をやってもダメ。しかしこんな容易い本を読み切ることすらできないようではしばらくダメなままだろう。しばらくダメなまま。
俺もキャンプ行こうかな…
読破できなかったので改めて電車に乗って会社へ向かった。
自分のデスクに着くとカバンの中で本が揺れている感じがする。
それはおそらく気のせいなのだが、心の中で残りのメソッドが気になっていたのかもしれない。
本を取り出す。ページをめくる。
内容が薄いので9番目のメソッドまであっという間に読むことができた。さっきまでの読み辛さが嘘のように。何故だろうか。そして何であの分量と内容であの厚みがあるのか、そのメカニズムもわからなかった。
10番目のメソッドのページを開く。
スイッチが描いてある。赤で丸いボッコリ。
唐突なページを見つめる。
間を置き、躊躇わずにそれを押した。
押す前の間は躊躇いの間ではない。
その瞬間的な出来事を誰も止めることはできない。私の指と、スイッチのゴム素材がピッタリと粘着するようにくっつく。そうなったら力をかけるだけ。その間に割って入ることができる人はいないだろう。ゴムが歪む。指がめり込む。
「カッ、チッ。」
その瞬間的な出来事。そしてそれが全て終わり、結果的に誰も止めることはなかった。
私は何をしていたのか。電車に揺られ、今日も気分が悪く、ふと自己啓発しようと思い立ち、思えばそれは広告に背中を押されており、電車から押し出され途中下車し、導かれるように同じ本を3冊も買い、グランデは全て床にこぼし、それを拭く店員の服の隙間から見える胸の谷間の残像が本の内容より頭に残り、頭のふらつきに逆らえず合流し日常のルーティンに戻った。会社の扉を開いた次の瞬間にはもうこの瞬間、今。今今今だ。赤いゴムに指がめり込んでいる今(スイッチは気持ちいいくらいに柔らかく、にゅるり、とした印象だった)。
今今今今今今今今今今今今今今今今今。意識を0コンマなんとか秒おきに更新してまた今。今をめくって今。氷の上を下手なスケーターが滑れば止まることすらできない。それと同じように冷や汗をかきながら今を更新している。こわいこわいこわい。けれどまた今。どうしよう、今が止まらず、止めることが出来ず心臓がばくばくする。落ち着け、周りを見回せ、、、
顔を上げる。なんだ、平然と皆暮らしてるではないか。
その瞬間、手元の本が爆発した。
ほんの僅か3秒ほどの間に更新した1万6853回目の「今」の出来事であった。