蛸焼奇譚

地下鉄は今日も混雑していた。

小和田遥子は人と人の間からどうにかこうにかホームに降り立つ時、生きている実感を得るのだった。

何故だろうか。

「産まれたっ」という感じがする。

じゃあその瞬間以外の時間は死んでいるのだろうか。

そうです。死んでいるのです。

 

「小和田ぁ。ザリガニは交尾をしたあと、赤色からある色に変わる。さて何色か、答えてみろ」

「先生、セクハラです。『交尾』『色』NGワードが2つで4点、あと呼び捨てで7点。合計11点の減点です」

「あっ、すみません。廊下立ちます」

「廊下に立つんですか。それなら半分の5.5点の減点とします。3秒以内に廊下に向かってください」

「はいっ」

滝田先生は背筋を伸ばし、腿を高く上げながら廊下へ走っていった。他の生徒たちから拍手が起こる。と言ってもこれは儀礼の様なもので、真の拍手が持つ様な熱は全く無く、コンサートの最後に起こるアンコールの様に決まりきったものだった。

小和田が滝田先生に最も苛立ったことはセクハラ発言でも呼び捨てでも無く、答えの定まらない問題を投げかけてきたことだった。ザリガニは交尾をしても色は変わらないのだから。

二時間目の授業が終わった。

 

昼食が終わり五時間目が始まった時、廊下に立っていた滝田先生が教室に戻ってきた。

「いやいやいや、まあまあまあ」

滝田先生は照れ臭そうだった。

「まぁさっきはあの、まああれだな。騒がしちゃって…ゴメンナッ」

元気係の寛子が言う。

「先生!ドンマイドンマイ!」

その他係のクラスメイト32人が一斉に笑う。

「アッハッハッハッハ!」

滝田先生が居心地の悪そうな表情でつぶやく。

「ダバダバ」

小和田遥子係の私が言う。

「先生、授業を始めましょうよ」

「ああ。そうだな」

その他係の32人が一斉に元の表情に戻る。元気係の寛子だけが「元気」をやめないで笑っていた。

「五時間目を始めるがその前に転校生が来ているから紹介する。いやぁうっかりうっかり。それじゃあ岸田くん、入っておいで!」

教室のドアが開き、男子生徒が入ってきた。

まず第一に思ったのが、背が高い。

彼は教卓に向かってスタスタと歩き、先生の右側にピタリとついた。

「それじゃあ、自己紹介しなさい」

「はい」

そこから若干沈黙があった。

寛子はどんな顔をしているだろうか。遥子はさりげなく寛子の方を向いた。

寛子はダラダラとよだれを垂れ流していた。遥子はギョッとして前に向き直った。

ちょうど転校生が声を発するところだった。

「こんにちは。はじめまして。大阪府立第三極西高等学校から転校してきました、岸田マルチワカ保です」

滝田先生が首をかしげる

「岸田くん?そうだったっけ」

「やり直させてください」

「やり直しなさい」

「こんにちは。はじめまして。大阪府立第三極西高等学校から転校してきました、岸田保です。よろしくお願いします」

みんながあの拍手をした。

私の頭の中には「マルチワカ?」の6文字が浮かんだ。もしかしたら「マルチワカ」では無くて「マルチ若」という表記かもしれない。

岸田君の家は親がマルチ商法で稼いでいて、岸田君はお手伝いの人や会社の人に「若」と呼ばれている。それを誇りに思って「マルチ若」というミドルネームを名乗っているのかもしれない。

もしくはシンプルに犬のマルチーズを最近飼い始めたから「マルチーズを飼っている若者」略して「マルチ若」だろうか。

そしてだんだん頭の中の「マルチ若」という文字が「マルチ苔」になりかけていたが意識を目の前の光景に戻した。

しかし岸田君、男前だ。

「岸辺の岸に田んぼの田。海上保安庁保安庁の保で岸田保言いますねん。「きしだほ」ちゃうで。しかも岸田ゆうても岸田今日子とちゃいますねん。ごめんなさい。大阪人だけどつまらない方の大阪人です。ほんとごめんなさい。がっかりしないでくださいね。しかも基本標準語で喋ります。大阪弁が全く出ません。ほんとごめんなさい。さっきの大阪弁全部嘘ですごめんなさいごめんなさい」

「よし。それじゃあ皆んな、岸田に拍手!」

また例の拍手が起こる。

「岸田は今日からこのクラスの一員だから、みんな仲良くするように」

先生は転校生が来た時に先生が言いそうなことを言った。

「それじゃあの一番奥の席。横山の隣が空いているからそこに座れ」

これもどっかで聞いたことがあったが遥子はギリセーフとした。

「えらいすいません。だなんて言わないよ。だって僕は大阪弁を忘れた不完全な大阪人。こういう時はあっ、どうもすみませんって言います」

と呟いて岸田君は照れ臭そうに机の間を通って横山の横の席に座った。

滝田先生が話し出すまでの沈黙の間に横山の

「岸田君、よろしくね。僕は横山憲一って言います」

という声が教室に小さく響いた。

どうやら手を差し出しているようだ。横山はそういう薄ら寒いやり取りを愛する男だった。

「よろしくお願いします」

確かに岸田君は淀みない標準語だった。

教室はとても静かだったので2人ががっちり握手をする音が前の方の席の私にまで届いた。

「よおし、それじゃあ五時間目、いってみよっっ!」

 

遥子は登校の途中で無性に学校へ行くのが気だるく感じることがある。そういう時はルートを変更して学校の近くの河原へ向かう。

手間川は都内にしては悠々とした川だった。

流れを見ているとぼんやりと時間を忘れることが出来そうになる。しかし、忘れる事はなかった。

今この瞬間教室ではみんなが授業を受けている。他の人と足並みを揃えて行動するのは得意ではなかったが、かといってそれをどうでもいい事だとも思いきれなかった。みんなの流れから離れる事は不安でもあった。

対岸に目を向ける。手間川を挟んだ向こう岸には、誰かが建てた通天閣のような何かが建っていた。

通天閣を模した建造物には縦書きで「安心と信頼の目立グループ」という文字が書かれていた。

そういえばうちの学校にも目立ちグループがいる。わけもなく廊下で大きな声を出しているやつら。何がそんなにおもしろいのか教えてほしいくらい笑っていた。

ただあの通天閣のことは当たり前になり過ぎて誰もその存在を疑問に思ってはいなかった。

なんでもかつての学生上がりの運動家たちがある種の社会変革を目指す活動の一環で建てたものらしい。

遥子の高校の多目的室にはその当時の写真が展示されていた。

ヘルメットを被った男たちが勇ましい表情で「東京にも通天閣を‼︎」と書かれた横断幕を掲げている写真だ。

これが一体何の意味を持つのか、何の為の運動なのかはよくわからなかったが、何の為に高校に通っているかわからない遥子は、自分もその当時を生きていたらそこに参加してたのかもしれないと空想した。