刄魚(ニンギョ)

受験生a村は入試会場までの道を引き返していた。

家を出て最寄りの駅に着き、改札を通ったところで嫌な予感がした。鞄の中を一度確認してみるとやはりだ。受験票が無い。

冷や汗で一気に全身が濡れる。その瞬間頭を回転させ受験票の在処を思い返す。

どこで、どこでだ。どこで失くした。

しかしどれだけ振り返っても失くした場所が思い当たらない。

玄関先。慌てて支度をした自分の部屋。朝のシャワーを終えて制服に着替えた衣装部屋。なぜか今朝だけ水圧が微弱で切なくなったシャワールーム。母が作ったフレンチトーストの中。用を足す自分の尻と尻の間。重たい目覚めを迎えた自分の部屋のベッドの周り。

今日の記憶のいずれにも受験票は存在しなかった。

とりあえず引き返すか。しかし引き返したとてどうだろう。確かにこのまま会場に向かうよりはマシかもしれない。急いで家の中を探せば見つかるかもしれない。余裕を持って30分早く家を出た。今戻れば10分程度は探す時間がある。

しかし10分探しても見つからなかったらどうだろう。あと1分、もう1分と探しているうちに出発のリミットを超えてさらに焦る。見つからないのに家を出ればもっと焦る。走って走って冷や汗の下から更に汗が出る。会場に着いた時には汗で服が肌に張り付き、それが鬱陶しくて今日までの勉強の成果など出ようも無いかもしれない。

それならば腹をくくって会場に向かい、係の人間に事情を伝えればなんとかなるかもしれない。

ダメなら係の人間をぶん殴って会場に突入すれば良い(かもしれない)。

万が一、億が1の確率でその心意気を会場を仕切っている偉い人に認められて試験を受けさせてくれるかもしれない(まともな人間の資質を問う為の試験だったらその場で不合格に)。

現実に頭を戻す。誰かに認めてもらえるような心意気を自分の持ち物の中から探している時間があるならば、家に帰って受験票を探すことにその時間をあてるべきだ。

a村はx分かけてyメートルの道を走り、家に帰った。

帰り道、途中にある家の車のボンネットに何かが突き刺さった跡があった。何かが突き刺さり貫通したと思われる箇所の周りは強い力で押されたように凹んでいた。

家に着く。

 

zキログラムのドアを開けて家の中に入り、靴をNaげるように脱ぎ捨てて、2階にある自分の部屋までKAIDANを駆け上がった。

KAIDANの1番上の段にKAINEKOの胃液が吐いてあった。a村は派手にそれを踏む。靴下に大きな黄色いシミが付き、顔が般若のように歪んだ。

家には誰もいなかった。彼は知らなかったが、親も兄弟もa村に内緒で「雪秀がんばれ」という横断幕を持って受験会場に向かっていた。

そんなことをするくらいなら家にいてKAIDANの1番上の胃液を拭き取ってくれる方が、結果的には彼の為になったかもしれない。胃液を拭き取り靴下を履き替えるのに1分間のロスをした。

部屋に入る。一歩目でまた生温いものを踏んだ。猫というのは一回何かを吐く時、必ずと言っていいほど何箇所かで同じように吐くのであった。

再びに般若の面になったa村はその表情のまま

ベッドの上で寝ている猫のキアヌリーブス(13歳・♀)の元まで大きな足音を立てて近づき大きな怒鳴り声をあげた。

「お前俺に恨みでもあんのかこのやろうッ‼︎」

「うにゃあん」

猫は表情は翁の面であった。

この数分間のことを彼は死後思い出すことになるのだが、猫に文句を言いつづけたその時間は記憶が補正されて彼と猫が一緒に能を踊ったことになっていた。

この能の時間で2分半のロスをした。

頭を切り替えて部屋を漁る。机の引き出しを開ける。どうでもいい文房具、どうでもいい写真、どうでもいいキーホルダーなどが出てきた。ここに探しているものがないことは隅まで探すまでもなくわかった。

第一に受験票がどこにあるのかわからないというのはどういうことだろうか??ドコニアルノカワカラナイトイウノハドウイウコトダロウカ。

きっとまさか失くすわけが無いだろうという奢りや、そもそも失くすようなものではないから自分の近くにそれは在り続けるだろうと思い続けた緩みがこうした事態を招いているのだと思う。

つまりあてもなくあれやこれやを開けたり閉めたりして物理的に受験票を探すよりも、自分の意識を改革する。それによって自分の内側から受験票を見つけ出す。その方が早いんじゃないかというのが3日間徹夜をした今のa村が導き出した答えだった。

a村は部屋から出てリビングへ向かう。電気の付いていない部屋の机の上にはフレンチトーストが残っている。a村は電気もつけずに着席し、フレンチトーストに対する。そして腕を後ろに組み、手を使わずに口からフレンチトーストに向かっていった。フレンチトーストのを貪る。理性を超えた食事だった。不条理な食事であった。

その時のa村は獅子村であり、豹村であり、熊村であり、虎村であり、猪村であり、人村では無かった。

「ごちそうさまでした」

という意味の唸り声をあげた。

計5分間のロスだった。

 

再び自分の部屋へ。もうこの時の彼はなにを踏もうが関係無かった。残り1分半。あと1分半で家を出なければ受験の開始時間に間に合うことが出来ない。

自分が10分間の中で選択した8分半の決定が全て間違っていたことがわかったこと、この3年間で一番の学びだった。

目の前は空であった。窓が開け放たれたままだ。風が吹き込みカーテンがびらんびらんに揺れていた。やうやうと、ゆんゆんとしていた。そわんそわんで、ゆわんゆわんだった。

自分が無力であるような感覚。3年間必至に勉強を積み重ねてきたのに、俺はなんて馬鹿なんだろう。気の緩みが全てを無駄にした。寝ないで寝ないでやったじゃないか。なんて意味が無いんだろうか。

受験勉強の日々が目の前に思い起こされる。部屋のあちこちを探していたが、a村の瞳には部屋は写っていなかった。暴れるように部屋の引き出しという引き出しを引き、スキマというスキマを覗き、足にぶつかるものは蹴り飛ばし、それでも眼に映るのは3年間の記憶。

雨の日も傘を揺らして家路を急ぎ、濡れた裾のまま勉強机へ向かった。夜は家族がテレビを観る笑い声を遠くに聞きながら、この部屋でペンが走る音だけを聞いた。衝動が湧き上がる時でも、コンパスの針を太ももに刺して堪えた。やりたいことは我慢をし、自分の獣性は殺し続けた3年間だった。その最後に受験票を失くした。盲点だった。

なんて馬鹿なのか。その思いが溢れ、自ずと涙が流れた。

「おお、おお。おおお、おおおお」

涙が床にぶつかる。視界がぼやけて頭の中が滲んだ。

「おお。おお、おお」

きっとこの瞬間、受験会場には続々と他の受験生が集まってきていることだろう。まだ会場に辿り着いていない受験生は最後の復習をしながら電車に揺られているか、緊張を抑えながら駅からの道を歩いているはずだ。

俺は何をやっているのか。3年間、何もしなかったとしても迎えられるような時間を過ごしている。天井についた目が自分を見る。ものすごく孤独であった。どえらい孤独。

自分が自分から突き放されたようになって、何故か悲しみがひいていった。涙がやみ、頬がパリパリと乾いた。きっともう10分はとうに過ぎているだろう。落ち着いた気持ちになった。

なんだ、こんなことだったのか、というような心地を覚えた。一切どうでもいいと思えた。現実逃避かもしれないが、白けた土地に立ってかえって生きる気力が沸く。

3日も寝てないんだから寝るか。風呂に入って湯船に浸かるか。いや今からでも遅くは無い。殴ってでも会場に入ろう。

とりあえず家を出ることだ。靴下を履きかえなければ。

部屋を出ようと足を一歩前へ。止まっていた視界が動く。

その時だった。机と壁の隙間に何か見える。

黄色い布切れか。パイン味のシート?違う。

あれは受験票だ。

少し黄色くて厚手の紙。あれは受験票だ。

えっ!受験票だ!受験票だ!

やった受験票だ!

やったやった!わー!

a村は一心不乱に受験票へ向かう。全身が隙間へ吸い寄せられる。

亡者のような足取りで進む。

机の前に辿り着き、床に膝をついて隙間を覗き込む。受験票に手を伸ばす。

受験票と目が合う。

受験票はこちらを睨みつけていた。

それは受験票では無く、金色に光る刃であった。

刃でありながらゆらゆらと動いている。魚のように。

訝しい表情でそれを見つめる。

なんだこれは?

そう思った瞬間、それは凄まじい速さでa村に向かって飛んでくる。音を立て回転しながら。

それはa村をa村とb村に分けた。

2つに別れたとてa村がどえらい孤独から解放されることは無かった。

 

それから一時間後。受験会場からは続々と受験生が退出していく。

その何日か後には同じ敷地内で誰かが喜んだり落胆したりするわけだが、今のa村には全て関わりのないことであった。