ヨッ!大統領
昨晩の飲み会の帰り道、千鳥足で歩いていた私は電信柱に顔面から激突した。
電信柱のボツボツが額に残って今も消えない。
そして何より私がこだわり抜いて選んだ眼鏡が真ん中から右と左に別れてしまったのだ。
私は翌朝上司に電話をかけた。
「かくかくしかじかで眼鏡が真っ二つになりまして…エヘッ、エヘヘヘスミマセンエヘヘ」
「そうですよね、電車も乗れませんわアハハエヘ、エヘヘヘ」
私は特別な許可を得て出勤前に眼鏡屋に寄った。
自動ドアの割れ目をまたいで眼鏡のイラストが印刷されている。
当然、私が入店する時にそのイラストも真っ二つになった。
一面に広がる眼鏡。この中から自分に最も似合う眼鏡を選ぶことになるのだと思うと目眩がする。しかしそうして選んだ眼鏡をかけた時、この目眩が収まるのだと思うと自ずと足どりがはずんだ。
「なんでもかんでもかけちゃってくださいねぇ」
店員a(アルファ)が近寄ってきて囁いた。耳元で。
「かけていい眼鏡しか置いてませんからね。気兼ねなくかけてくださいね」
かける気が無くなったが、かけなければ似合う眼鏡は選べない。似合う眼鏡を選ばなければ会社に行けない。
仮に自分が眼鏡をかけないで会社に行ったら
「エッ、吉岡くん、君アハハエヘヘって言ってたのにメガネかけてないじゃないか」
と上司に言われるだろう。
そうした場合あいつは奇妙なやつだ、眼鏡を買うから会社に遅れるって言ってたのに眼鏡買わないでバターサンド買ってきたよ、と会社中の人間に言いふらされることになる。
そしたら昇進の道は絶たれ、社長になる望みも絶たれ、今の上司と部下のバターサンド状態から抜け出せないままの人生を送ることになる。
即ち、このジレンマをぶっ飛ばして眼鏡を選び抜かなければ俺はヒラのままだ。
その時だった。
自動ドアの眼鏡を真っ二つにして沢山の人が店内に入ってきた。しかも彼らは皆サングラスをかけたガタイの良い黒人男性。どうやら拳銃を携えているような気配を纏っている。そして全員イヤモニをつけている。
その男たちの群れの向こう側の通りに黒塗りの車が止まっているのが確認できた。扉が開き車内から誰かが降りてくるのが見える。
駅前商店街の人々が叫ぶ。
「ヨッ!大統領」
「待ってました!ヨーッ!」
「いつもみてるよ!」
「大好き!」
「いつもありがとうね!」
小さな女の子が駆け寄っていく。
「大統領の絵を描きました」
受け取った大統領は渋い声で
「Thank you.」
大統領の顔は確認できなかったが、描いた絵を確認することはできた。
頭が黄色に爆発している。目元が黒でぐちゃぐちゃだ。腕が2メートル近くある。
女の子は照れ臭そうに母親の元へ戻って行った。母親が「良かったね」と呼びかけるが女の子の顔に表情は無かった。空疎な間。
大統領は人々に手を振りながら眼鏡屋に入店した。店内は騒然とした。まばらな客がざわめくのが感じ取れる。俺は震わせる眼鏡すらなく無感動であった。
店員が大統領のもとに駆け寄る。
「大統領、お会いできて光栄です。
う〜、ここにある眼鏡なんでもかけて結構なんですよ。大統領、どんどんかけてくださいね」
「グラサンある?」
店員のビジネストークに対し矢継ぎ早に大統領は返した。
「あのね、あの紫のフチのグラサンとか。無いカナ?あのあの、無ければビリジャンでもいいんだけど。とにかくねフチがふっといやつ。ふっとくないとヤなの。あのーそれでネ、あのあのあのレンズとのところはねとにかく黒いの。あの黒く無いとヤなの。とにかーく黒いやつ。もう向こうなんかまるっきり見えないくらいがいいの。それがちょうど良(い)くて、その良いわけ。あのわかるかなあのあノ。あのねあのあの真っ黒太太のやつだよ。無いなら無いで言ってくれていいからネ。ほらそのプレッシャー感じないで良いからサ。見せて一番真っ黒太太太太なやつ出して頂戴ネ」
店員は独自に築き上げた接客スキルの中で対応する言葉を探している様子だったが、大統領のリズムに戸惑って汗をかきはじめた。
長い沈黙の後大統領が声をあげた。
「黙ってないでサどうなの」
店員の汗は止まらない。
「あるの?ないの?」
そして店員の下顎が顔面から滑落した。皮膚を纏った下顎は床にぶつかって鈍い高音を発した。
固い骨をくるんだ皮膚ごしの高音。聴いたことのない音が無防備な瞳に飛び込んできた。
その音は重力に従って下へ流れ落ち、鼻の奥、上顎をつたって舌へ。苦甘い味がした。
この味はどこかで感じたことがある。それを思い出そうとする間も体の下の方へ音が。
何の味だろう…。音は喉を過ぎた。
何の味だろう…。音は胸部で広がった。
何の味だろう…。音はみぞおちをかき回した。
そこで思い出した。目薬が落ちてきたときの味だ。甘いのに不味いアレの味だ。
そして音は下腹部から膀胱へ。気付いて堪えたときにはもう遅く、音は尿道を駆け抜け放たれた。
「ブゥオオオオオオオ」法螺貝が鳴った。
その狼煙の音にSPが反応した。店内の注目がこちらに集まる。
「ユー!テロリストか!ユー!」
「ノーノー!ノーテロリスト!」
「ジャアナンナノ!」
「I'm Find glasses man!!!」
その言葉が通じたのかSP達の表情は穏やかになり、お互い顔を見合わせてホッとしたような視線を送り合っていた。
そしてリーダー格と思しき黒人男性が大統領のもとへ駆け寄り耳元で何かを囁いた。
その後大統領は私に一番似合う眼鏡を選んでくれた。
大統領が選んだのだからきっとこの眼鏡は良い眼鏡だろう。
眼鏡を購入し、大統領が去った後も私は店内にしばし残った。大統領のいた場所から去るのが名残惜しかったからか、会社に行くのが嫌だったからか、どちらかはわからない。
おでこのボツボツも消えないが、とりあえず駅へ向かう。
この1時間ほどの間に起きた出来事は、私の生涯の中で最も濃い記憶として残り続けた。