犬にまさぐられ

明け方の駅前通りをうろついていたら、誰もいない道を街灯に照らされながら野良犬が歩いていた。その犬は野良犬にしては妙に高級そうで、品の良いベージュ色の毛が夜露に濡れて毛羽立っていた。

ワンツースリーフォー!

犬が近づいてきた。3メートル、2メートル、1メートル、来た来た来た来た!

犬が私の身をよじ登ってくる!一歩二歩三歩!顔ベロベロッ!腹部ガリッ、膝グリグリッ!そう、つまりこれは「まさぐられ」ている…!


【まさぐ•る】〔〔ま〕は接辞〕〔それで気を紛らすように〕いじりまわす。「母親の乳房をー赤子」[表記]「〈弄る〉」とも書く。


いやこれはまさぐられるというよりも、励まされていると言った方が正しいかもしれない


【はげま•す】気持ちの面で負けないように精神面を全力で後押しすること。「頑張れ」とか「負けないで」「最後まで走り抜けて」などと声を掛けること。


心の中で犬に「励ましてくれてありがとう」と言った。そして野良犬は心の中で「ワンワン」と言ったが、それは私には伝わって来なかった。私は心の中でジャーキーを与えたが、犬は心の中では魚しか食わなかったので食べはしなかったが、私にはそれが伝わって来なかったので、心の中で野良犬に心の中で餌を恵んだことを満足気に感じていた。

しかしまだ私は明け方の駅前通りで野良犬にまさぐられている、もとい励まされていたのだった。

もう少しで通勤や通学の為に人が現れるだろう。こんなところを観られたら「ああ、あの人は犬と社交ダンスの大会に出るんだな」と思われる。それは嫌だ。それだけは避けたい。急ハンドルで避けていきたい。避けた先に歩行者が歩いていたとしても避けたい。もはや避けたくないレベルで避けたいのであった。

そうこうしてたら昼の3時になっていた。私はまだまさぐられていた。

この間色々なことがあった。まずスカウトマンが来た。ペアで社交ダンスのコンテストに出場しませんか、とオファーを受け野良犬が承諾したので来月、長崎へ遠征に行く事になった。そして通報を受けた愛護団体が現れ注意勧告を受け、その後カーディーラーが来て新型ハイブリッド車の購入を検討させられ、鎧塚シェフが現れ新作スイーツの試食をさせられ、感想を求められ、5段階で評価をさせられ、星4つをつけて満足な気持ちで帰らせ、水の研究員が現れ、今年度のろ過技術についての研究の総括を聞かされ、乳牛が現れ、乳を絞らされ、その乳をめちゃめちゃに振ってバターを作らされ、次いで野良犬がそのバターをベロベロに舐め、ついでに私の顔も舐め、やって来る歩行者の事も次々と舐め、アスファルトを舐め、永田町を舐め、アメリカを舐め、チュッパチャプスを舐め、切手を舐め、清水を舐め、兄を舐め、実家の柱を舐め、兄の嫁を舐め、明日の昼の会議を舐め、ホテルニューオオタニを舐め、折角の親切を舐め、走行する大型トラックを真正面から舐め、自分を舐め、舐められながら舐め、舐められるのを嫌がりながら舐め、舐めを舐め、これからも一生舐め続けて行こうという決意を舐め、もう舐め終わるな、という予感を舐め、最後に惜しむように私の顔を一度舐めて、まさぐるのを止めた。野良犬は最後に握手を求めてきて来月の長崎遠征頑張ろう、と心の中で言って野良の穴に戻って行った。

私は夕方から友人と会う用事があったので速やかに家に帰った。