Scotland Journal

1956/2019

蛸焼奇譚

地下鉄は今日も混雑していた。

小和田遥子は人と人の間からどうにかこうにかホームに降り立つ時、生きている実感を得るのだった。

何故だろうか。

「産まれたっ」という感じがする。

じゃあその瞬間以外の時間は死んでいるのだろうか。

そうです。死んでいるのです。

 

「小和田ぁ。ザリガニは交尾をしたあと、赤色からある色に変わる。さて何色か、答えてみろ」

「先生、セクハラです。『交尾』『色』NGワードが2つで4点、あと呼び捨てで7点。合計11点の減点です」

「あっ、すみません。廊下立ちます」

「廊下に立つんですか。それなら半分の5.5点の減点とします。3秒以内に廊下に向かってください」

「はいっ」

滝田先生は背筋を伸ばし、腿を高く上げながら廊下へ走っていった。他の生徒たちから拍手が起こる。と言ってもこれは儀礼の様なもので、真の拍手が持つ様な熱は全く無く、コンサートの最後に起こるアンコールの様に決まりきったものだった。

小和田が滝田先生に最も苛立ったことはセクハラ発言でも呼び捨てでも無く、答えの定まらない問題を投げかけてきたことだった。ザリガニは交尾をしても色は変わらないのだから。

二時間目の授業が終わった。

 

昼食が終わり五時間目が始まった時、廊下に立っていた滝田先生が教室に戻ってきた。

「いやいやいや、まあまあまあ」

滝田先生は照れ臭そうだった。

「まぁさっきはあの、まああれだな。騒がしちゃって…ゴメンナッ」

元気係の寛子が言う。

「先生!ドンマイドンマイ!」

その他係のクラスメイト32人が一斉に笑う。

「アッハッハッハッハ!」

滝田先生が居心地の悪そうな表情でつぶやく。

「ダバダバ」

小和田遥子係の私が言う。

「先生、授業を始めましょうよ」

「ああ。そうだな」

その他係の32人が一斉に元の表情に戻る。元気係の寛子だけが「元気」をやめないで笑っていた。

「五時間目を始めるがその前に転校生が来ているから紹介する。いやぁうっかりうっかり。それじゃあ岸田くん、入っておいで!」

教室のドアが開き、男子生徒が入ってきた。

まず第一に思ったのが、背が高い。

彼は教卓に向かってスタスタと歩き、先生の右側にピタリとついた。

「それじゃあ、自己紹介しなさい」

「はい」

そこから若干沈黙があった。

寛子はどんな顔をしているだろうか。遥子はさりげなく寛子の方を向いた。

寛子はダラダラとよだれを垂れ流していた。遥子はギョッとして前に向き直った。

ちょうど転校生が声を発するところだった。

「こんにちは。はじめまして。大阪府立第三極西高等学校から転校してきました、岸田マルチワカ保です」

滝田先生が首をかしげる

「岸田くん?そうだったっけ」

「やり直させてください」

「やり直しなさい」

「こんにちは。はじめまして。大阪府立第三極西高等学校から転校してきました、岸田保です。よろしくお願いします」

みんながあの拍手をした。

私の頭の中には「マルチワカ?」の6文字が浮かんだ。もしかしたら「マルチワカ」では無くて「マルチ若」という表記かもしれない。

岸田君の家は親がマルチ商法で稼いでいて、岸田君はお手伝いの人や会社の人に「若」と呼ばれている。それを誇りに思って「マルチ若」というミドルネームを名乗っているのかもしれない。

もしくはシンプルに犬のマルチーズを最近飼い始めたから「マルチーズを飼っている若者」略して「マルチ若」だろうか。

そしてだんだん頭の中の「マルチ若」という文字が「マルチ苔」になりかけていたが意識を目の前の光景に戻した。

しかし岸田君、男前だ。

「岸辺の岸に田んぼの田。海上保安庁保安庁の保で岸田保言いますねん。「きしだほ」ちゃうで。しかも岸田ゆうても岸田今日子とちゃいますねん。ごめんなさい。大阪人だけどつまらない方の大阪人です。ほんとごめんなさい。がっかりしないでくださいね。しかも基本標準語で喋ります。大阪弁が全く出ません。ほんとごめんなさい。さっきの大阪弁全部嘘ですごめんなさいごめんなさい」

「よし。それじゃあ皆んな、岸田に拍手!」

また例の拍手が起こる。

「岸田は今日からこのクラスの一員だから、みんな仲良くするように」

先生は転校生が来た時に先生が言いそうなことを言った。

「それじゃあの一番奥の席。横山の隣が空いているからそこに座れ」

これもどっかで聞いたことがあったが遥子はギリセーフとした。

「えらいすいません。だなんて言わないよ。だって僕は大阪弁を忘れた不完全な大阪人。こういう時はあっ、どうもすみませんって言います」

と呟いて岸田君は照れ臭そうに机の間を通って横山の横の席に座った。

滝田先生が話し出すまでの沈黙の間に横山の

「岸田君、よろしくね。僕は横山憲一って言います」

という声が教室に小さく響いた。

どうやら手を差し出しているようだ。横山はそういう薄ら寒いやり取りを愛する男だった。

「よろしくお願いします」

確かに岸田君は淀みない標準語だった。

教室はとても静かだったので2人ががっちり握手をする音が前の方の席の私にまで届いた。

「よおし、それじゃあ五時間目、いってみよっっ!」

 

遥子は登校の途中で無性に学校へ行くのが気だるく感じることがある。そういう時はルートを変更して学校の近くの河原へ向かう。

手間川は都内にしては悠々とした川だった。

流れを見ているとぼんやりと時間を忘れることが出来そうになる。しかし、忘れる事はなかった。

今この瞬間教室ではみんなが授業を受けている。他の人と足並みを揃えて行動するのは得意ではなかったが、かといってそれをどうでもいい事だとも思いきれなかった。みんなの流れから離れる事は不安でもあった。

対岸に目を向ける。手間川を挟んだ向こう岸には、誰かが建てた通天閣のような何かが建っていた。

通天閣を模した建造物には縦書きで「安心と信頼の目立グループ」という文字が書かれていた。

そういえばうちの学校にも目立ちグループがいる。わけもなく廊下で大きな声を出しているやつら。何がそんなにおもしろいのか教えてほしいくらい笑っていた。

ただあの通天閣のことは当たり前になり過ぎて誰もその存在を疑問に思ってはいなかった。

なんでもかつての学生上がりの運動家たちがある種の社会変革を目指す活動の一環で建てたものらしい。

遥子の高校の多目的室にはその当時の写真が展示されていた。

ヘルメットを被った男たちが勇ましい表情で「東京にも通天閣を‼︎」と書かれた横断幕を掲げている写真だ。

これが一体何の意味を持つのか、何の為の運動なのかはよくわからなかったが、何の為に高校に通っているかわからない遥子は、自分もその当時を生きていたらそこに参加してたのかもしれないと空想した。

 

刄魚(ニンギョ)

受験生a村は入試会場までの道を引き返していた。

家を出て最寄りの駅に着き、改札を通ったところで嫌な予感がした。鞄の中を一度確認してみるとやはりだ。受験票が無い。

冷や汗で一気に全身が濡れる。その瞬間頭を回転させ受験票の在処を思い返す。

どこで、どこでだ。どこで失くした。

しかしどれだけ振り返っても失くした場所が思い当たらない。

玄関先。慌てて支度をした自分の部屋。朝のシャワーを終えて制服に着替えた衣装部屋。なぜか今朝だけ水圧が微弱で切なくなったシャワールーム。母が作ったフレンチトーストの中。用を足す自分の尻と尻の間。重たい目覚めを迎えた自分の部屋のベッドの周り。

今日の記憶のいずれにも受験票は存在しなかった。

とりあえず引き返すか。しかし引き返したとてどうだろう。確かにこのまま会場に向かうよりはマシかもしれない。急いで家の中を探せば見つかるかもしれない。余裕を持って30分早く家を出た。今戻れば10分程度は探す時間がある。

しかし10分探しても見つからなかったらどうだろう。あと1分、もう1分と探しているうちに出発のリミットを超えてさらに焦る。見つからないのに家を出ればもっと焦る。走って走って冷や汗の下から更に汗が出る。会場に着いた時には汗で服が肌に張り付き、それが鬱陶しくて今日までの勉強の成果など出ようも無いかもしれない。

それならば腹をくくって会場に向かい、係の人間に事情を伝えればなんとかなるかもしれない。

ダメなら係の人間をぶん殴って会場に突入すれば良い(かもしれない)。

万が一、億が1の確率でその心意気を会場を仕切っている偉い人に認められて試験を受けさせてくれるかもしれない(まともな人間の資質を問う為の試験だったらその場で不合格に)。

現実に頭を戻す。誰かに認めてもらえるような心意気を自分の持ち物の中から探している時間があるならば、家に帰って受験票を探すことにその時間をあてるべきだ。

a村はx分かけてyメートルの道を走り、家に帰った。

帰り道、途中にある家の車のボンネットに何かが突き刺さった跡があった。何かが突き刺さり貫通したと思われる箇所の周りは強い力で押されたように凹んでいた。

家に着く。

 

zキログラムのドアを開けて家の中に入り、靴をNaげるように脱ぎ捨てて、2階にある自分の部屋までKAIDANを駆け上がった。

KAIDANの1番上の段にKAINEKOの胃液が吐いてあった。a村は派手にそれを踏む。靴下に大きな黄色いシミが付き、顔が般若のように歪んだ。

家には誰もいなかった。彼は知らなかったが、親も兄弟もa村に内緒で「雪秀がんばれ」という横断幕を持って受験会場に向かっていた。

そんなことをするくらいなら家にいてKAIDANの1番上の胃液を拭き取ってくれる方が、結果的には彼の為になったかもしれない。胃液を拭き取り靴下を履き替えるのに1分間のロスをした。

部屋に入る。一歩目でまた生温いものを踏んだ。猫というのは一回何かを吐く時、必ずと言っていいほど何箇所かで同じように吐くのであった。

再びに般若の面になったa村はその表情のまま

ベッドの上で寝ている猫のキアヌリーブス(13歳・♀)の元まで大きな足音を立てて近づき大きな怒鳴り声をあげた。

「お前俺に恨みでもあんのかこのやろうッ‼︎」

「うにゃあん」

猫は表情は翁の面であった。

この数分間のことを彼は死後思い出すことになるのだが、猫に文句を言いつづけたその時間は記憶が補正されて彼と猫が一緒に能を踊ったことになっていた。

この能の時間で2分半のロスをした。

頭を切り替えて部屋を漁る。机の引き出しを開ける。どうでもいい文房具、どうでもいい写真、どうでもいいキーホルダーなどが出てきた。ここに探しているものがないことは隅まで探すまでもなくわかった。

第一に受験票がどこにあるのかわからないというのはどういうことだろうか??ドコニアルノカワカラナイトイウノハドウイウコトダロウカ。

きっとまさか失くすわけが無いだろうという奢りや、そもそも失くすようなものではないから自分の近くにそれは在り続けるだろうと思い続けた緩みがこうした事態を招いているのだと思う。

つまりあてもなくあれやこれやを開けたり閉めたりして物理的に受験票を探すよりも、自分の意識を改革する。それによって自分の内側から受験票を見つけ出す。その方が早いんじゃないかというのが3日間徹夜をした今のa村が導き出した答えだった。

a村は部屋から出てリビングへ向かう。電気の付いていない部屋の机の上にはフレンチトーストが残っている。a村は電気もつけずに着席し、フレンチトーストに対する。そして腕を後ろに組み、手を使わずに口からフレンチトーストに向かっていった。フレンチトーストのを貪る。理性を超えた食事だった。不条理な食事であった。

その時のa村は獅子村であり、豹村であり、熊村であり、虎村であり、猪村であり、人村では無かった。

「ごちそうさまでした」

という意味の唸り声をあげた。

計5分間のロスだった。

 

再び自分の部屋へ。もうこの時の彼はなにを踏もうが関係無かった。残り1分半。あと1分半で家を出なければ受験の開始時間に間に合うことが出来ない。

自分が10分間の中で選択した8分半の決定が全て間違っていたことがわかったこと、この3年間で一番の学びだった。

目の前は空であった。窓が開け放たれたままだ。風が吹き込みカーテンがびらんびらんに揺れていた。やうやうと、ゆんゆんとしていた。そわんそわんで、ゆわんゆわんだった。

自分が無力であるような感覚。3年間必至に勉強を積み重ねてきたのに、俺はなんて馬鹿なんだろう。気の緩みが全てを無駄にした。寝ないで寝ないでやったじゃないか。なんて意味が無いんだろうか。

受験勉強の日々が目の前に思い起こされる。部屋のあちこちを探していたが、a村の瞳には部屋は写っていなかった。暴れるように部屋の引き出しという引き出しを引き、スキマというスキマを覗き、足にぶつかるものは蹴り飛ばし、それでも眼に映るのは3年間の記憶。

雨の日も傘を揺らして家路を急ぎ、濡れた裾のまま勉強机へ向かった。夜は家族がテレビを観る笑い声を遠くに聞きながら、この部屋でペンが走る音だけを聞いた。衝動が湧き上がる時でも、コンパスの針を太ももに刺して堪えた。やりたいことは我慢をし、自分の獣性は殺し続けた3年間だった。その最後に受験票を失くした。盲点だった。

なんて馬鹿なのか。その思いが溢れ、自ずと涙が流れた。

「おお、おお。おおお、おおおお」

涙が床にぶつかる。視界がぼやけて頭の中が滲んだ。

「おお。おお、おお」

きっとこの瞬間、受験会場には続々と他の受験生が集まってきていることだろう。まだ会場に辿り着いていない受験生は最後の復習をしながら電車に揺られているか、緊張を抑えながら駅からの道を歩いているはずだ。

俺は何をやっているのか。3年間、何もしなかったとしても迎えられるような時間を過ごしている。天井についた目が自分を見る。ものすごく孤独であった。どえらい孤独。

自分が自分から突き放されたようになって、何故か悲しみがひいていった。涙がやみ、頬がパリパリと乾いた。きっともう10分はとうに過ぎているだろう。落ち着いた気持ちになった。

なんだ、こんなことだったのか、というような心地を覚えた。一切どうでもいいと思えた。現実逃避かもしれないが、白けた土地に立ってかえって生きる気力が沸く。

3日も寝てないんだから寝るか。風呂に入って湯船に浸かるか。いや今からでも遅くは無い。殴ってでも会場に入ろう。

とりあえず家を出ることだ。靴下を履きかえなければ。

部屋を出ようと足を一歩前へ。止まっていた視界が動く。

その時だった。机と壁の隙間に何か見える。

黄色い布切れか。パイン味のシート?違う。

あれは受験票だ。

少し黄色くて厚手の紙。あれは受験票だ。

えっ!受験票だ!受験票だ!

やった受験票だ!

やったやった!わー!

a村は一心不乱に受験票へ向かう。全身が隙間へ吸い寄せられる。

亡者のような足取りで進む。

机の前に辿り着き、床に膝をついて隙間を覗き込む。受験票に手を伸ばす。

受験票と目が合う。

受験票はこちらを睨みつけていた。

それは受験票では無く、金色に光る刃であった。

刃でありながらゆらゆらと動いている。魚のように。

訝しい表情でそれを見つめる。

なんだこれは?

刃魚(ニンギョ)であった。

そう思った瞬間、それは凄まじい速さでa村に向かって飛んでくる。音を立て回転しながら。

刃魚はa村をa村とb村に分けた。

2つに別れたとてa村がどえらい孤独から解放されることは無かった。

 

それから一時間後。受験会場からは続々と受験生が退出していく。

その何日か後には同じ敷地内で誰かが喜んだり落胆したりするわけだが、今のa村には全て関わりのないことであった。

自己啓発BONG

毎朝地下鉄に乗っている。

どの朝の私も血圧が低い。

電車の振動よりも激しく頭の中が揺れるので酔ってしまいそうだ。

率直にいうと気持ちが悪くて吐きそうだ。

吐きはしないものの、一日中調子が悪い。昼間はひたすらに眠く、夜は目が冴えている。

昼間は狸、夜は狐だ。

朝のニュース番組の色使いは目に毒で、夜のニュース番組の色使いはお高く止まってるみたいで退屈である。

昼のニュース番組をたまたま見たことがある。ちょうどいい色使いであった。しかしその時間は基本的に働いているからそれを目にすることはほとんど無かった。

 

車輌のあちこちに広告が掲載されている。

よく見かけるのが自己啓発本の広告である。

「仕事ができる人はみんなやっている 超異端社長が教える10のメソッド」

あまりにもくだらないタイトルであった。

くだらなさも臨界点を超えると意味が爆発する。飽和状態になった意味が逃げ場を失ってぱつんぱつんになった後、それを感じるやいなや弾け散るのだった。

ダメな時は何をしてもダメだ。10のメソッドのうち今役に立つものはあるだろうか。

私は次の駅で降りて本屋へ向かった。

あてはなかったが、駅に直結したビルの3階に「びよんびよん書房」というチェーンの本屋があったのでそこに入った。自己啓発本はこの手の本屋には見つけたくなくても見つかるくらい何冊もある。

「やるかやらないかはあなた次第

やった人が感じることのできる世界を案内するマインドトラベルガイド」

「朝実感する メンタルを生まれ変わらせる24のアイデア

「現役No.1臨床心理士が耳元で囁く あなた自身を変える2600のマニュアルレボリューション

〜ソノイキカタマチガッテイマスヨ〜」

「人生はほんの些細な長い旅

〜美しい歌に導かれいざイビサへ〜」

「狂ったような私が出逢った

〜我が心のインド、アテネ、そしてパラオ〜」

「メンタルスナイパーSATOSHIGEが撃ち抜くあなたの20の心の悩み〜キットナヤミキエル〜」

「心の中にモアイ像を建立することで負けない人生が始まる」

「もう自己啓発本には騙されない 本当に本当の自己啓発BOOK」

タイトルを見ているだけで充分に自己啓発されたが、私の心の虚空は依然としてそこにあった。ダメな時は何をしてもダメだから、あえて今まで読む事を避けてきたこの自己啓発の世界へ飛び込もう。そう思ったのだった。

例のあの異端社長のメソッド本は平積みされていたのですぐに見つかった。売れているようで店員の書いたポップのようなものが本の前に掲げてある。

 

「阪東線の扉の窓あたりに貼ってある広告でお馴染み!

今人気の異端の中の異端社長「寺坂ITAN慎一郎兼実」が今伝えたい、今読むべき今を変え今を輝く10のメソッド

買うなら今!」

 

確かに今買わねばならない。今買わねば人生が変わらない。そうとさえ思えてしまうような心地であった。

私は一冊それを買えば良いものを勢い余って3冊レジへ持っていった。会計中には既に無駄に2冊買ったことに気づくくらいには心は冷静だったが、後悔はしないように努めた。

だから振り返ることなく本屋を出てビルの4階のチェーンのカフェ「SPLASH COFFEE TOKYO」に入った。レジでカフェラテのグランデを購入し空いている席に着く。

グランデに口をつけることさえ忘れ私は買った本を開いた。

本の1ページ目には既に1つ目のメソッドが書いてあった。

「やるなら、今。」

もうコレ。

だからね。嫌になっちゃうよ。

なんて言わないようにした。これこそが真実。そういう気持ちで読まないと自己啓発の世界に足を踏み込んだ意味がない。これからこのジャングルを進む以上、どんなに気持ち悪い虫が出てきても歩み切らなければならない。

1つ目のメソッドの下にはこう書いてあった。

 

「そりゃそうでしょ。やるなら、今。これに決まってる。やる奴は必ず成果をあげる。やらない奴にその道は無い。だからやるなら、今。これで決定だね。俺は確実にそう思ってる。」

 

薄い中身を希釈してどうする。なんて思ってはならない。これこそが真実。真理。貴い教えである。我が心のリーダーが存分に振るいしリーダーシップよ。美しいじゃないか。どこまで付いて行こう。私はあなたのサイドカーに乗り込んでしまったのだ。

ページをめくった。ここでようやくグランデちゃんに口をつけた。

2つ目のメソッド。

 

「今という時間を分かち合うことで分かち合える分かち合いがある。」

ガビーーン。顎が外れた。滑落した顎、グランデちゃんの中へ。カフェラテの中で下顎がガクガクいっている。

そしてこう続く。

「もう今だけでしょ。今。感じられるのはもうほんとそれだけ。だったら誰かとわかち合わなきゃ終わりじゃん。今を今生きているわけだから今誰かと感じようよ、この今を。一番それ美しいじゃない。」

誰に言っている言葉なんだ?なんて思ってはならない。だってこの言葉は紛れもなくこの私に向けられているのだから。疑問とは呼べない疑問だ。私がこの言葉を素直に聞く。ただそれだけ。ただそれだけで私も異端の一味になれるし、未来が開けるのだから。

重たいページをめくる。3つ目のメソッドは突き抜けるように目に飛び込んできた。

 

「今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今」

 

なんと!機関銃だ!今の乱れ撃ち。それを一発も余すことなく私は喰らった。痛い痛い痛い!だけど気持ち良い!

「とにかく今なんだよ。何度も言う。今今今今今今!今があるから今じゃない時間がある。俺は今の全てに今を感じてる。だから自分自身が今であれるわけ。最高に感じあえる仲間と今を感じながら火を囲む。あっ、土日またキャンプ行ってこよ」

 

今今忌々しい。キャンプ行ってこよ、だかなんだか知らないがどこにでも行ってきたら良いじゃない。

私は嫌になって本を閉じた。

決意したがやはりダメだった。ダメな時は何をやってもダメ。しかしこんな容易い本を読み切ることすらできないようではしばらくダメなままだろう。しばらくダメなまま。

俺もキャンプ行こうかな…

 

読破できなかったので改めて電車に乗って会社へ向かった。

自分のデスクに着くとカバンの中で本が揺れている感じがする。

それはおそらく気のせいなのだが、心の中で残りのメソッドが気になっていたのかもしれない。

本を取り出す。ページをめくる。

内容が薄いので9番目のメソッドまであっという間に読むことができた。さっきまでの読み辛さが嘘のように。何故だろうか。そして何であの分量と内容であの厚みがあるのか、そのメカニズムもわからなかった。

10番目のメソッドのページを開く。

スイッチが描いてある。赤で丸いボッコリ。

唐突なページを見つめる。

間を置き、躊躇わずにそれを押した。

押す前の間は躊躇いの間ではない。

その瞬間的な出来事を誰も止めることはできない。私の指と、スイッチのゴム素材がピッタリと粘着するようにくっつく。そうなったら力をかけるだけ。その間に割って入ることができる人はいないだろう。ゴムが歪む。指がめり込む。

「カッ、チッ。」

その瞬間的な出来事。そしてそれが全て終わり、結果的に誰も止めることはなかった。

私は何をしていたのか。電車に揺られ、今日も気分が悪く、ふと自己啓発しようと思い立ち、思えばそれは広告に背中を押されており、電車から押し出され途中下車し、導かれるように同じ本を3冊も買い、グランデは全て床にこぼし、それを拭く店員の服の隙間から見える胸の谷間の残像が本の内容より頭に残り、頭のふらつきに逆らえず合流し日常のルーティンに戻った。会社の扉を開いた次の瞬間にはもうこの瞬間、今。今今今だ。赤いゴムに指がめり込んでいる今(スイッチは気持ちいいくらいに柔らかく、にゅるり、とした印象だった)。

今今今今今今今今今今今今今今今今今。意識を0コンマなんとか秒おきに更新してまた今。今をめくって今。氷の上を下手なスケーターが滑れば止まることすらできない。それと同じように冷や汗をかきながら今を更新している。こわいこわいこわい。けれどまた今。どうしよう、今が止まらず、止めることが出来ず心臓がばくばくする。落ち着け、周りを見回せ、、、

顔を上げる。なんだ、平然と皆暮らしてるではないか。

その瞬間、手元の本が爆発した。

ほんの僅か3秒ほどの間に更新した1万6853回目の「今」の出来事であった。

 

ロッケンロー酒場

ロッケンロー酒場には今日も売れないロック歌手が集まっていた。

ロッケンロー酒場自体が、その町で一番儲かっていない飲食店だったが、そのに集まる客はその比では無いくらい貧乏くさく、誰一人とて、まともな金を持っていなかった。

そのくせ現行の音楽シーンに対する不満は人一倍あり、酒のつまみに日本のロックやポップスに対する愚痴をこぼしあっていた。

「大体自分で詞曲が作れない奴がどうしてアーティストって呼ばれるわけ?アートっていうのは個人の生命の発露のことでしょ?」

「もっと現状の客層から裾野を広げられなきゃホント未来無いよね日本のロック」

「日本にも腕のあるスタジオミュージシャンいっぱいいるわけじゃない。ああいう人達をどんどん引っ張り上げてきて若手と組ませるみたいな、歌舞伎の連獅子的なことはできないもんかね?」

「歌舞伎の連獅子と言えば歌舞伎の端で三味線とか琴弾いてる人達。あれ大概九州の人だって本当?」

店は0時閉店をうたっていたが、彼らのフラストレーションの発散は毎晩やむことがなく、朝四時ごろまで酒場の明かりは消えなかった。

 

マスターには悩みがあった。この男たちの不平不満を文句も言わず聞くのは大変で、口を挟もうものなら

「マスター。それ我々の危機感がわかって言ってるの?我々が懸念してるのはこの店なんかよりずっと広いこの国の音楽の話。ひいては世界のシーンの話なわけ。それなりに事前知識がある上で話に入ろうってなら聞こうじゃないの」

「俺マスターのことは好きだけど、我々の畑に入って物言いたいっていうなら話は別だな。それよりさっきの注文入ってる?」

といい年をした中年達がみな大人気なく反論してくる。

大体この男達は全く知らない様だったが、マスターはかつて日本武道館のステージに幾度も立ったことのある、名うてのドラマーであった。

海外の関係者と未だに連絡を取ることもあり、ここの客よりよっぽどその辺の話には精通していた。しかしある時期に音楽をやめてこの町でロック酒場を経営している。

何故を音楽をやめたのかはこの際置いておくが、彼らの着飾った妬み嫉みには我慢ならないものがあった。

毎日夕方ごろには決まったメンバーがまばらに集まり始め、19時を超える頃には大体のレギュラーが揃っていた。

 

そしてマスターが悩んでいるのは耳の裏のこぶのことだった。

数日前たまたま耳の裏をかいたとき、大きめのこぶができていることに気づいた。鏡に映して見てみるとそれは人間の顔をしていて髪も生えている。パーマがかった長髪だった。

その人面こぶは基本的には眠っていて、寝息を立てたりまれにいびきをかくぐらいでそれほどの害は無い。しかしカウンターに立ち、例の客達の話を聞いていると動き始めるのだ。

「チッ」

「チッ、チッ。…チッ、カスが…」

「…ガタガタガタガタ…うざってえんだよ…」

マスターはこぶを人差し指で撫でてなだめる。

「やめろ…。聞こえるから…」

「聞こえやしねえよ…。俺の声なんか…」

こぶは気性が荒かった。

ここにいる客の会話は不愉快で仕方がないらしく、こぶが苛立つと共に疼きがマスターにも伝わり、ズキズキと痛んだ。

「俺にはこいつらがどれほどのレベルのやつかわかるぞ…おいお前、お前も気に入らないだろこんなやつら」

こぶが囁く。

マスターは客から目につかない店のバックヤードへ移動した。

「おい、コソコソしなくたっていいじゃねえか。あのクソどもにお前が思ってることを全部言っちまえ」

こぶの言う通り、客の言っていることは耐えきれないほど腹立たしかったが、それを口にするのはみっともないことだとマスターは思っていた。

マスターはこぶに問うた。

「お前は誰だ?」

「誰かと聞かれてもなぁ…」

「お前ただのこぶじゃないだろう」

「そりゃあまぁ…そこらへんのこぶとはちょっと違うかもしれない」

「こうやってちゃんと話すと、意外と普通に話せるんだ」

「俺だってイライラしないで済むならそれが一番良い。アイツらの言ってることはあまりにもな…」

「気持ちはわかる」

「殺してやりてぇよ…」

こぶが苦い顔をしてるのは見なくてもわかった。

「わかるけれど、そういうことを言うなよ。客は客だから」

マスターは心のどこかでむず痒さが残るものの、冷静に話そうとつとめた。儲かってないとは言っても自分の大事な店だ。客ともめて変な噂が立つのはよくない。

「俺にはあの話が耐えられねえ。どう言うわけかお前の耳の一番近くにできちまったもんで、そういうところにはよく響くんだよ人の話が」

「耳が傘になってるのに」

まだ客がぼやいている声が聞こえる。

彼らは無闇に声が大きい。

「アイドル風情がチャートにランクインしてるこの惨状に小便漏れるぜ!」

「日本は小便まみれか!?」

「日本の音楽の根幹は揺らいでいる!アマリニモオカシクナイカ!?」

「オカシイヨナ!」

周辺諸国がのし上がってきてる今、日本の屈強な音楽文化を再度振興しなければな!」

マスターはため息をついた。気が重かったがカウンターへと戻った。

「ロックに水を注げ!偉大なる音楽文化を取り戻せ!」

「そうだそうだ!」

「お遊びのエンタメ音楽は終わりにしろ!」

「そうだそうだ!」

「ニャー!」

表で猫が鳴いた。

春が来ている。人にも盛りの時期というのはあるんだろうか。自分はなるべく心を安定させて生きるように努めている。

にも関わらずこの男たちはなんだろう。理解ができない。自分のことを棚に上げて言いたい放題だ。厚顔無恥も甚だしい。

ドウシテソンナフウニイキラレルノ?

「最高の音楽を作っていこうぜ!」

チャック三田村というステージネームの男が叫んだ。最近ではロクに楽器も触っていない。

「おお!」

賛同の声が店内に響いた後、連中は声を揃えて高らかにこう声を上げた。

「ロッケンロー!」

その瞬間だった。人面こぶが爆発した。

背に並んだ酒のボトルに血が飛び散る。

自然に口が開き、マスターは声を発していた。

 

 

 

店が小刻みに揺れる。グラスの中の酒の表面が揺れる。会話の矛先がぶれる。

「マ、マ、マ、マスター、いいい一体どうしたノノノノの⁇⁇skr鱒たdddddd」

「お前らロックの話ししてたなぁいああああ」

「ししシシししてないよおおおお」

血のついた酒瓶が次々に床とぶつかり割れる。飛び散るガラス片がマスターを避けるように客の元へ飛んで行く。

客の顔はガラス片でいっぱいになった。

「二度とロックのはなしすんなぁああこかああああ」

「mouしませええぇんんぇん‼︎‼︎」

「ごめんねぇんぇんぇんぇんぇん[7(」

「ロッケンロオオオオル」

「mou聴きませぇえんえんんんえええぇ‼︎⁈pop」

「mou歌いますせえぇんえんえ円園縁炎¥en!!!」

「明日もまた来てねえええええええe‼︎‼︎」

 

違法マッサージ

繁華街を歩く。ネオンの看板が立ち並ぶ。

その中に堂々と「違法マッサージ」と書かれた看板があった。私は確かに違法マッサージの店を探していたが、表立ってそれを売りにしている店に出会うとは思っていなかった。

違法マッサージであることは後ろ暗いことではないのだろうか。

警察は違法なものを取り締まる為にパトロールを行なっているはずだ。こういう店に対しては何かしらの注意をするだとか、そもそも営業を停止する為の措置を図るだろう。

白地に黒い明朝体で「違法マッサージの店 グッド揉ーミング東京」と書いてある。

それ以外の情報はどこにも載っていなかったが、文字の右下の方で小さな親指のようなキャラクターが飛び跳ねている。そしてふきだしがついていてその中にグルグルの線が書かれている。

まさに今の私が表現されているようなふきだし。なんなのコレ?と言った感じ。

その横に「とび出せ!若手マッサージEX」という店の看板が出ていたが、私は「グッド揉ーミング」を選ぶ。雑居ビルの中へ入った。

 

エレベーターで4Fまで上がる。扉が開くと床は水浸しだった。滑らないように気をつけて進む。

ピンクの扉や青の扉があるが、突き当たりの赤い扉の上に「違法」という黄色いネオンが光っているのでそこを目指す。

廊下にはバケツやモップなどの掃除用具が散乱していた。濡れてひっくり返った猥褻な週刊誌もそこここに散らばっている。濡れた雑誌の色は虚しい。

滑らないようにしたり滑りを利用したりしながら突き当たりまで近づく。もう少しのところで右足がもたつき後ろ向きに体が傾く。まずい、と思い無理やり姿勢を前傾に。しかしその時点で重心のコントロールが効かなくなり、足が滑る。体は前に倒れている。今は宙に浮いた状態だ。徐々に頭から床に突っ込んで行く。手を伸ばした。何かを掴む。腕に力がかかる。

ドアノブが回った。体も回った。扉が開く。

 

スクリューのように何回転も回りながら気づくと私は受付の前にいた。

「いらっしゃいませ」

白い施術着の男が目の前に立っている。

「何時間で?」

「何時間があるんですか?」

「何時間でもいけますよ。あなたが望むなら」

この問題は非常に重要だと思った。

ここで何と答えるか。それがこの後の数時間に大きく作用することはわかった。

その時都合よく扉が開いた。店内に禿頭の男が入ってきた。驚くことにその男の頭はプラチナのように白く光っていた。

「お兄さん、お先いい?」

男の声は耳が痛くなるほど甲高く、顔の皮膚はそれらと相反するように岩のようにゴツゴツとしていた。

「18時間コースいけます?」

「はい、どうぞ」

男の希望は長かった。18時間。

たとえここでひたすらに眠ったとしても、18時間をそこに費やすのは苦しい。

また扉が開いた。今度はコウモリのようにいきり肩の男。短髪が頭にねっとりとくっついている。口元は前に向かって突き出し、何より背が高い。大人が通るには十分な高さの入り口を潜るように入ってきた。

「26時間コースでお願いします」

「了解しました」

そして扉が開く。

次に店内に入ってきたのは目出し帽をかぶった男だ。

「強盗だ!」

店員に刃物を突きつける。

「あるもん全部出せ!」

「本日は1200時間コースまでご用意できます」

「それで頼む!」

三人の男たちは皆同じように店の奥の黒い扉の奥へ消えていった。

「お待ちのお客様、どうぞ」

店員は私に向かって話しかけている。私は近づいた。

「ここの店を利用するのは初めてなんだ。さっきから随分長い時間のコースをみんな利用しているみたいだけれども、一体どういう理由(わけ)?」

私は紳士ぶって話した。

「そうでいらっしゃるんですね。いらっしゃるんですね。いらっしゃるんですね。いらっしゃるんですね。いらっしゃるんですね」

「そうなんだよ」

「そうでいらっしゃるんですね。いらっしゃるんですねいらっしゃるんですね。いらっしゃるんですね」

「そうなんだよ」

「左様でございますか。ここには長いコースをご希望の方々が全国津々浦々、北は宗谷岬、南は波照間島、西は与那国島、東は南鳥島から集まってきていらっしゃるんですね」

「そうなんですね」

「そうなんです」

「いいですね」

「いいでしょう」

「いいと思います」

「そうでしょう」

「じゃあ僕もお願いすることにしようかな」

「左様でございますか。左様でございますか」

「1時間半コースで」

「ムスッ」

 

そんなやりとりの後、私は260時間コースを選んだ。それにしてもこの店のメニューは免許皆伝の巻物の様に長かった。律儀に30分刻みで書いてあるのだから。

調子に乗って人差し指と中指を1時間コースから下に向かって歩かせていったもんだから目的のコースに到着するまでに40分かかった。

そして黒い扉から施術室までは20分かかった。コースを選んでから呼ばれるまで40分かかり、その前の妙な客のやりとりが15分近くあったことを思うと店に入ってから私が施術台に寝そべるまで2時間弱かかったことになる。店はガラガラなのに。

ただこの店はそんなに従業員が多くも無さそうだし、それを思えばあの途方も無い時間の注文を受け付けながら2時間ほどで施術までたどり着くことができたのは異例の早さとも言える。

ありがとう。

ヨッ!大統領

昨晩の飲み会の帰り道、千鳥足で歩いていた私は電信柱に顔面から激突した。

電信柱のボツボツが額に残って今も消えない。

そして何より私がこだわり抜いて選んだ眼鏡が真ん中から右と左に別れてしまったのだ。

 

私は翌朝上司に電話をかけた。

「かくかくしかじかで眼鏡が真っ二つになりまして…エヘッ、エヘヘヘスミマセンエヘヘ」

「そうですよね、電車も乗れませんわアハハエヘ、エヘヘヘ」

 

私は特別な許可を得て出勤前に眼鏡屋に寄った。

自動ドアの割れ目をまたいで眼鏡のイラストが印刷されている。

当然、私が入店する時にそのイラストも真っ二つになった。

 

一面に広がる眼鏡。この中から自分に最も似合う眼鏡を選ぶことになるのだと思うと目眩がする。しかしそうして選んだ眼鏡をかけた時、この目眩が収まるのだと思うと自ずと足どりがはずんだ。

「なんでもかんでもかけちゃってくださいねぇ」

店員a(アルファ)が近寄ってきて囁いた。耳元で。

 

「かけていい眼鏡しか置いてませんからね。気兼ねなくかけてくださいね」

かける気が無くなったが、かけなければ似合う眼鏡は選べない。似合う眼鏡を選ばなければ会社に行けない。

仮に自分が眼鏡をかけないで会社に行ったら

「エッ、吉岡くん、君アハハエヘヘって言ってたのにメガネかけてないじゃないか」

と上司に言われるだろう。

そうした場合あいつは奇妙なやつだ、眼鏡を買うから会社に遅れるって言ってたのに眼鏡買わないでバターサンド買ってきたよ、と会社中の人間に言いふらされることになる。

そしたら昇進の道は絶たれ、社長になる望みも絶たれ、今の上司と部下のバターサンド状態から抜け出せないままの人生を送ることになる。

即ち、このジレンマをぶっ飛ばして眼鏡を選び抜かなければ俺はヒラのままだ。

 

その時だった。

自動ドアの眼鏡を真っ二つにして沢山の人が店内に入ってきた。しかも彼らは皆サングラスをかけたガタイの良い黒人男性。どうやら拳銃を携えているような気配を纏っている。そして全員イヤモニをつけている。

その男たちの群れの向こう側の通りに黒塗りの車が止まっているのが確認できた。扉が開き車内から誰かが降りてくるのが見える。

駅前商店街の人々が叫ぶ。

「ヨッ!大統領」

「待ってました!ヨーッ!」

「いつもみてるよ!」

「大好き!」

「いつもありがとうね!」

小さな女の子が駆け寄っていく。

「大統領の絵を描きました」

受け取った大統領は渋い声で

「Thank you.」

大統領の顔は確認できなかったが、描いた絵を確認することはできた。

頭が黄色に爆発している。目元が黒でぐちゃぐちゃだ。腕が2メートル近くある。

女の子は照れ臭そうに母親の元へ戻って行った。母親が「良かったね」と呼びかけるが女の子の顔に表情は無かった。空疎な間。

大統領は人々に手を振りながら眼鏡屋に入店した。店内は騒然とした。まばらな客がざわめくのが感じ取れる。俺は震わせる眼鏡すらなく無感動であった。

店員が大統領のもとに駆け寄る。

「大統領、お会いできて光栄です。

う〜、ここにある眼鏡なんでもかけて結構なんですよ。大統領、どんどんかけてくださいね」

「グラサンある?」

店員のビジネストークに対し矢継ぎ早に大統領は返した。

「あのね、あの紫のフチのグラサンとか。無いカナ?あのあの、無ければビリジャンでもいいんだけど。とにかくねフチがふっといやつ。ふっとくないとヤなの。あのーそれでネ、あのあのあのレンズとのところはねとにかく黒いの。あの黒く無いとヤなの。とにかーく黒いやつ。もう向こうなんかまるっきり見えないくらいがいいの。それがちょうど良(い)くて、その良いわけ。あのわかるかなあのあノ。あのねあのあの真っ黒太太のやつだよ。無いなら無いで言ってくれていいからネ。ほらそのプレッシャー感じないで良いからサ。見せて一番真っ黒太太太太なやつ出して頂戴ネ」

店員は独自に築き上げた接客スキルの中で対応する言葉を探している様子だったが、大統領のリズムに戸惑って汗をかきはじめた。

長い沈黙の後大統領が声をあげた。

「黙ってないでサどうなの」

店員の汗は止まらない。

「あるの?ないの?」

そして店員の下顎が顔面から滑落した。皮膚を纏った下顎は床にぶつかって鈍い高音を発した。

固い骨をくるんだ皮膚ごしの高音。聴いたことのない音が無防備な瞳に飛び込んできた。

その音は重力に従って下へ流れ落ち、鼻の奥、上顎をつたって舌へ。苦甘い味がした。

この味はどこかで感じたことがある。それを思い出そうとする間も体の下の方へ音が。

何の味だろう…。音は喉を過ぎた。

何の味だろう…。音は胸部で広がった。

何の味だろう…。音はみぞおちをかき回した。

そこで思い出した。目薬が落ちてきたときの味だ。甘いのに不味いアレの味だ。

そして音は下腹部から膀胱へ。気付いて堪えたときにはもう遅く、音は尿道を駆け抜け放たれた。

「ブゥオオオオオオオ」法螺貝が鳴った。

その狼煙の音にSPが反応した。店内の注目がこちらに集まる。

「ユー!テロリストか!ユー!」

「ノーノー!ノーテロリスト!」

「ジャアナンナノ!」

「I'm Find glasses man!!!」

その言葉が通じたのかSP達の表情は穏やかになり、お互い顔を見合わせてホッとしたような視線を送り合っていた。

そしてリーダー格と思しき黒人男性が大統領のもとへ駆け寄り耳元で何かを囁いた。

 

その後大統領は私に一番似合う眼鏡を選んでくれた。

大統領が選んだのだからきっとこの眼鏡は良い眼鏡だろう。

眼鏡を購入し、大統領が去った後も私は店内にしばし残った。大統領のいた場所から去るのが名残惜しかったからか、会社に行くのが嫌だったからか、どちらかはわからない。

おでこのボツボツも消えないが、とりあえず駅へ向かう。

この1時間ほどの間に起きた出来事は、私の生涯の中で最も濃い記憶として残り続けた。

学園天国(特殊)

アキラ「アユレデイー?」

全校「イエー」

アキラ「ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ」

全校「イエー」

アキラ「ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ」

全校「イエー」

アキラ「ヘーイ?ヘーイ、ヘーイ?ヘーイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ、わー!」

全校「イエー」

アキラ「あいつもこいつも…って歌えるかー!全部イエーで返すなよ!そこは臨機応変に、ヘーイって言ったらヘーイで返すってやってもらわないとー!」

全校「ヘーイ」

アキラ「馬鹿にしてんのかー!」

全校「イエー!」